四〇〇字程度

おもしろいこと言える大人になるためには何をすればよかったのかと考える無駄使い

メタモルフォーゼの夜

一昨日、「変態アニメーションナイト2014」に行ってきた。いくつかツイートしたのでまとめておく。

 

×あわた ○あわや

 

 

缶に詰められたコーンスープは進化しなくてもいいや

何をしていてもサマになる、絵になる人間がいるいっぽうで、誰がしていてもまぬけでどことなくおかしみを催す行為がある。矛盾しているようで、サマメン・サマウーメンはその世界観に「まぬけ」という不協和音すらのみ込む力を持っているので、二者は昇華されたりする。

スチール缶に詰められたコーンスープはしゃきしゃきのコーンの粒が入っていて、自動販売機で買うなんて経済的じゃないやなんて理屈を無視して、時に衝動的に購入したくなる魅惑の逸品である。ただいつまでたってもコーンの粒を完全に腹におさめることはできない。スープを飲み干し、底に残った粒を「でてこいやおら」と小突き続けるのはけっこう根性がいる。まぬけな自分の姿に気がついたら負ける。

でも「あいつめー」と思う人物が、寒空の下でコーンスープを買って、大事に大事に手のひらにおさめて、粒を咀嚼しながらぼんやりしているところを想像すると、なんだかおおらかな気持ちになれる。「まぬけ」なその人を許せるような気持ちになる(刹那的に)。世の中にはあんがい、そういうふうに演出され潤滑油になる「まぬけ」のタネがあるんじゃないかと思ったのだった。

待つ時間が手持無沙汰だったので

PM15時、ぽっかりと仕事が絶えた。こうなったら待つしかないので、いすに座したまま「休め」の姿勢に入っていたときのこと。

唐突に不幸に振り回される身の上について考え始めた。私の家族は今、幸福ではない。誰も家に帰りたいと思えないのではないかと思う。帰ってもそこに安寧がないから。見たくない顔があるから。理由はそれぞれで元をたどれば原因を一つにする。

私は早々に逃げ出して、今も許されていないと思う。割れ目の見えない厚い曇り空の下で緩やかで終わりの見えない不幸せに囲まれている。たまに雷鳴が走る。何かを変える兆しなのかもしれないけれど、目を閉じて過ぎるのを待つ。そしてまた曇天が続く。

こんなふうにつづることもたいへんな傲慢だと思う。私は許されていない。

みんなが疲れている。この先も疲れ続ける。なんて悲しいのだろう。でも不幸せというのはそういうものなのかもしれない。何も思いつかない。

とある文芸賞の受賞作品を読んでいる

筑波大学には文芸賞の運営を行う学生団体がある。私が在学中に創設され、年に1度学園祭に合わせ、受賞作の発表と、作品や受賞者インタビューを掲載した無料冊子を配布している。

今年は第6号が発行されていたのを、学園祭を覗いた際に入手した。

まだ掲載作品のうち、冒頭2編を読んだばかりだが、佳作受賞「雨傘」(吉野梔子)より。

わたしと言う人間は、真っ当に会話するよりも、よそ事を考えながらの方が優しいことが言えるらしい。(p22)

 私は齢を重ねることができたらすりきれてなくなってくれるだろうかと期待していることがあってそれは私という人間について語る言葉のすべてである。出さずにはいられないのだけど、出してしまうと人に屁を聞かれたように恥ずかしいのだ。

著者は学生で、主人公の「わたし」の語りをつづる文章のために「硬さ」を意識したとインタビューで述べている。私は上の一文に、濃くもなく薄くもなく、ただ名残るるような自己言及の影を見て、初老の男性の一人称の再現に苦心したという著者に「おもしろかった」と伝えたくなった。

戻る道すがら考えていたこと

 

 

一晩泊まったくらいでは罪滅ぼしにはならない。

そもそも罪滅ぼしをしに帰っているなどと知られたらどれだけ傷つけるだろうとも思うけれど、案外、そんなこと気にされていないかもしれない。

二食作ったくらいでは一緒に生活をしているとは言えない。

私の作る料理なんて、しょうゆの味しかしない炒め物に卵がべちょべちょとした炒飯、そして出来合いのサラダと揚げ物で、作ったと言っていいのかもあやしい。

三人で過ごしてももう家族の姿をしていない。

争う子どもを「家族が争うべきではない」と言うそのくちで、「あいつを殺すことさえ考えるけれどそうなっては身の破滅だ。」と毒づく人のことを、とやかく言う資格もない。もう何も言いたくないと思ってしまった。

もう何もできないのだと言い聞かせる言葉が自己陶酔に染まっていないか、おそるおそる確かめてみる。うたがわしい。ぜったいに酔っている。

でも何も変えられる気がしないのだ。

絵にかいたような美しい夕焼けがうらめしい。

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シャンプーとコンディショナーを詰め替える

シャンプーを詰め替えた。コンディショナーも替えるつもりだったが、ボトルの底にまだどろりと、優に5回分は残っているのを見てしまっては捨てることもできずに、これを使い切ってからにしようと思う。「断捨離」とやらがまた一段と遠のく。

頭皮を泡まみれにしてこすりながら、公倍数について考えた。わずかではあるが、シャンプーの1日当たりの消費量とコンディショナーのそれには差がある。そのため、同日に下ろしても、詰め替えのタイミングは異なってしまう。同じ商品を使い続ける限りにおいてはあまり問題もないように思えるが、何事も財布の中身を優先する現在の生活の中ではドラッグストアの軒先で特売されている商品にいともたやすく乗り換えてしまうので、シャンプーとコンディショナーの製造元が違う、という美しくない状態になってしまう。

この次、シャンプーを詰め替えるときには、コンディショナーは10日分残っている計算になる。その次は20日分、その次は1カ月分。いつになったら同時に詰め替えられるだろう。

目をさますとだれもいない

とても空腹だったから遠くまで行く気力がなかった。それからおもいのほか週末にお金を使わなかったので、少し贅沢を許せる気持ちがあった。昼休みに近くのブックカフェでおいしい昼食をいただく運びとなった。

ミートソース丼とつけあわせのサラダが美味しかったことは書き留めておく。

ブックカフェで手に取ったのは『だーれもいない だーれもいない』。表紙を見た瞬間「ああ、『タンゲくん』の人だな」と思ったら、ページをめくってすぐに女の子の足元に『タンゲくん』が置かれていてにこにこした。

しかし『だーれもいない だーれもいない』は苦しくなった。コッコさんが目を覚ますと家の中にだれもいない。犬小屋にイヌもいない。風やくもや、山鳩が来て、だれもいないの? とコッコさんにおいうちをかけていく。おかあさんとおにいちゃんとイヌが散歩から帰ってくる。飛びついてきたイヌを、まだうちひしがれてうたがわしい目のまま抱きとめるコッコさん。そしておかあさんにしがみついて、足から脱げて落ちるサンダル。

ひとりで起きてひとりで眠るひとのことを思い出したりした。