四〇〇字程度

おもしろいこと言える大人になるためには何をすればよかったのかと考える無駄使い

ルピナスさんと胡麻のキッシュのはしりがき

金曜日はひな祭りのように過ぎた、とふと言葉が浮かんだのでそのまま記す。

18時に仕事を終えてよいと言われて、ふだんはこのような時間に帰れることはめずらしく、明日は仕事もないし、誰かに会って金曜日の残りを充実させたいと思った。給料日のあとはこういう気まぐれはままあることだ。

その職場に赴くとき、3回に1回ほど訪れているブックカフェで腰をおちつけ、少し前に誘いをくれたが私の都合がつかず会えなかった友人にメールをした。返信を待つ間、バーバラ クーニー『ルピナスさん―小さなおばあさんのお話』を手に取って眺め、黒胡麻のキッシュを食べた。

ルピナスさんはタイトルのとおり、もうおばあさんなのだが、おばあさんじゃなかったころがある(と本人が言っている)という女の子の語りから始まった。表紙に描かれた女性がおばあさんというには若く見えたので、たいへんなっとくした。ただ、ルピナスさんは世界をめぐった後に、ひとりで療養生活に入った時期があって、髪に白いものが目立ち、ちょっとやせたようだ。

海辺を歩きながら、花の種をまくルピナスさんのシーンがある。そこがいちばん好きだ。

 

ルピナスさん―小さなおばあさんのお話

ルピナスさん―小さなおばあさんのお話

 

 

本の話はむずかしい

 

村上龍『音楽の海岸』を読んでいる。朝夕読んでいる。電車で読んでいる。不思議なことがある。この小説を鞄に入れて持ち運ぶようになってからというもの、電車で席に座ることができる。乗り込んだ駅から降車する駅まで座れる。ずっと読んでいられる。これはきっと作品のチャームだ。

しかし本当は知っている。『音楽の海岸』を持ち歩くようになったこの数日、私は10時に出勤して22時に帰るような生活をしていた。ラッシュから遠ざかっていた。そしてその勤務時間を設定したのは私ではない。その勤務時間を設定した人間は私が『音楽の海岸』を持ち歩いていることを知らない。

でも私は落ち着いて読みたかったがために、3本に1本くらいある、妙に混んでいる列車に遭遇したとき、その列車を見逃したのだ。改札に近い降車口からわざわざ3両も隣の車両に移動したりもした。読みたかったから。きっと作品のチャームだ。

アミの部屋の窓の描写が二度出てくるが、一度目と二度目でその向こうにあるものが違う。違うのだよ

 

音楽の海岸 (講談社文庫)

音楽の海岸 (講談社文庫)

 

 

喫煙席の祖母と孫

改札を出て30秒、禁煙席と喫煙席が半々に用意されたチェーン店舗のカフェがある。朝は通勤の前から、夜は23時まで開いているからたいへん重宝している。メニューも安い。

日曜日の夕方はふだんとは異なる顔ぶれが集まる。

喫煙席にあきらかな幼年者、小学生、それ以下の子ども、場合によっては乳幼児がいるとひるんでしまう。印象に残る。今日も小学校中学年程度の男児が、祖母とおぼしき女性とカウンター席に並んで語らっていた。

言うまでもなく女性は煙草を吸っていた。それから男児はケーキをつついていたが、白いクリームの残骸からはそれがどんな種類のケーキなのか推測するしかない。

女性は「こんなところに連れてくるばあちゃんなんてあんまりいないだろう」と言って男児に同意を求めていた。それから夕食のシュウマイの話をした。男児は澄んで好い声で、賢しげにすらすらと応えていた。そうかと思うと、グラスの水を足しにいったり、隣接する書店を覗きにいったり、年相応の落ち着きのなさを見せていた。

私は、一晩だけ祖母のもとに預けられた孫なのかなと想像していた。

誰も隣に座らない人がいて

電車の中で両脇が空席のまま、座っている人。空いている席があるというのにドアに寄りかかって目をつむっている人は気になるか。あなたの隣に誰も座らなくても、あなたが必要以上にそのことを気にする必要はない。けれど私はあなたの隣に座らない。立ったままでいるだろう。

恋は違った。あなたでなければいけないと思ったし、座るように促して腕を引きさえした。その人は同じ電車の中にいるのに自分の隣にはいない。立ったままでいるか、どこかの誰かの隣へと腰をおろしてしまった。

考えてみたら、どうして失敗した恋なんて思い出したのか不思議だ。ただ「誰もあなたの隣にいないことをあなたはそんなに気に病むことはないけど、私はあなたの隣には座らない」という声を、私はいつかどこかで、誰かの困ったような顔に、見たことがあったのかもしれないと思った。

私はまたどこかでそんな顔を見ることになるだろうか。それとも私がそんな表情をしてみせるんだろうか。その時私は電車の中のあの人を思い出すんだろうか。

夢見の悪い朝に

見た夢を思い出せなかった。身支度をととのえたところで、歯を磨く前に家の外に出て、煙草を吸っていて、やっと母と弟が出てくる夢であったと手ごたえを得た。そこから芋づるに内容が引きずり出された。

私は二人の期待にこたえられなかったうえ、わりと平然とした顔で背信行為を続けていた。同じ屋根の下にいる(という設定だった。もしかして過去のいつかだったのかもしれない)というのに二人の顔や声をじっくり観察するふてぶてしささえ見せていた。二人は私のことをいないものとして扱っていた。目を覚ました後でさえ、尾を引いたのはこの疎外感による衝撃であったらしかった。

とほうもない夢でさえそれが現実の生活の何に由来するものであるか推測する。昨夜は祖母から留守番電話にメッセージが残されていた。

「電話をかけようと思って番号をまわしたけどつながらなくてファクシミリを送信してくださいってばっかり」(ぶつり)

これが呼び水になったのだろうか。不審な留守番電話の内容については解決した。

帰り道で

ああはなるまいと思うことばかりだ。人の多い場所ではとくに、インターネットでだって(ああはなるまい)。

電車の中で、手すりにも吊革にもつかまらず、揺れに耐えている女性がいた。私は終点まで開かないドアの前に立って外を見ていた。地下鉄の窓は車内を映す。

女性は私の背の近くで、片手で片腕の手首を握りしめて、足を「休め」の形に開いて立っていた。うつむいていて、サイドの髪が頬を隠していた。列車がポイントを通過して音を立てると、女性は左右に揺れた。足はふんばってるのがわかった。

車内は空いてはいなかったけど混んでもいなかった。女性が降車の邪魔になるとも思えなかった。女性も誰の邪魔もする気もないらしかった。なににもつかまらずふんばっていることを誰かにあてつけるためにしているわけでもないらしかった。ぜんぶ女性の自由の範疇にあった。

それで私は自分のことを考える。私はうつむいて、つかまらず、ふんばって、かたくなに誰かの注意を惹いてはいないだろうか。「ああはなるまい」なんて思われていないだろうか。